ヌーヴェル・フランス(New France / Nouvelle-France)
16世紀のカルティエの航海から、1608年のケベック・シティの砦、毛皮交易、1759年のアブラハム平原の戦いまで、北アメリカにあったフランスの植民地「ヌーヴェル・フランス」の流れをまとめます。ケベック州やアカディアのフランス語文化の始まりでもあります。
ヌーヴェル・フランスとは
ヌーヴェル・フランス(フランス語で Nouvelle-France、英語で New France)は、17〜18世紀に北アメリカにあったフランスの植民地です。市民権の学習用ガイド「Discover Canada(新しいタブで開く)」は、ジャン・タロン、ラヴァル司教、フロントナック伯らが、ハドソン湾からメキシコ湾にまで及ぶフランスの勢力圏を北アメリカに築いたと説明しています。
いまのケベック州のフランス語の文化や、大西洋側の州に暮らすアカディア人の文化は、この時代に始まりました。カナダの歴史全体の流れはカナダの歴史の流れにまとめています。
年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1534〜1542年 | ジャック・カルティエが3回大西洋を渡り、フランス国王フランソワ1世のために土地の領有を宣言 |
| 1550年代 | 「カナダ」という名前が地図に現れ始める |
| 1604年 | ピエール・ド・モンとサミュエル・ド・シャンプランが、フロリダより北で最初のヨーロッパ人の入植地をつくる。はじめはサントクロワ島(いまのアメリカ・メイン州)、のちにアカディアのポール・ロワイヤル(いまのノバスコシア州) |
| 1608年 | シャンプランが、いまのケベック・シティに砦を築く |
| 1670年 | イギリス国王チャールズ2世が、ハドソン湾会社にハドソン湾に流れ込む地域での独占的な交易権を与える |
| 1701年 | フランスとイロコイ連合が和平を結ぶ |
| 1755〜1763年 | イギリスとフランスの戦争の中で、アカディア人の3分の2以上が故郷から追放される |
| 1759年 | ケベック・シティのアブラハム平原の戦いでイギリスがフランスに勝ち、アメリカ大陸のフランスの勢力が終わる |
| 1774年 | イギリス議会がケベック法を制定 |
「カナダ」という名前
Discover Canada によると、カルティエは、とらえられた2人の案内役が、イロコイ語系の言葉で「村」を意味する「kanata(カナタ)」と言うのを聞きました。1550年代には、「カナダ」という名前が地図に現れ始めます。カルティエは、セントローレンス川を探検し、いまのケベック・シティとモントリオールの場所を見た最初のヨーロッパ人だとされています。
先住民との同盟と毛皮交易
入植者は厳しい気候に苦しみました。シャンプランは、アルゴンキン、モンタニェ、ヒューロンの人々と同盟を結びました。これらの人々は、5つ(のちに6つ)のファースト・ネーションズの連合であるイロコイと長く対立しており、イロコイは1世紀にわたってフランスの入植地と戦いました。フランスとイロコイは1701年に和平を結んでいます。
フランス人と先住民は、ヨーロッパでのビーバーの毛皮の需要に支えられた、広い範囲の毛皮交易で協力しました。カヌーで旅をして交易した人々は「ヴォワイヤジュール(voyageurs)」「クルール・デ・ボワ(coureurs des bois)」と呼ばれ、ファースト・ネーションズと強い同盟を結びました。
一方、1670年にはイギリス側のハドソン湾会社が交易権を得て、その後100年にわたってモントリオールを拠点とする交易商と競い合いました。先住民の側から見た歴史は先住民の歴史で扱います。
アカディア
アカディア人(Acadians)は、1604年からいまの沿海州(Maritime provinces)に入植を始めたフランス人入植者の子孫です。Discover Canadaの「私たちは誰か」の章(新しいタブで開く)によると、1755年から1763年のイギリスとフランスの戦争の中で、アカディア人の3分の2以上が故郷から追放されました。このできごとは「大追放(Great Upheaval)」と呼ばれています。アカディア人はこの経験を乗り越えて独自のアイデンティティーを保ち、いまもカナダのフランス語圏の一部としてその文化が受け継がれています。
1759年とその後
17世紀初めから大西洋岸にあったイギリスの植民地は、やがてヌーヴェル・フランスより豊かで人口も多くなりました。1700年代には、フランスとイギリスが北アメリカの支配をめぐって争います。1759年、ケベック・シティのアブラハム平原の戦いでイギリスがフランスに勝ち、アメリカ大陸のフランスの勢力は終わりました。両軍の指揮官、ウルフ准将とモンカルム侯は、どちらもこの戦いで亡くなっています。
戦争のあと、イギリスはこの植民地を「ケベック植民地(Province of Quebec)」と名付けました。フランス語を話すカトリックの住民は「アビタン(habitants)」または「カナディアン(Canadiens)」と呼ばれ、英語を話すプロテスタントの帝国の中で、自分たちの暮らし方を守ろうとしました。
1774年、イギリス議会はケベック法(Quebec Act)を制定しました。Discover Canada によると、この法律はカトリック教徒の信仰の自由と公職につくことを認め、民事についてはフランスの法を戻し、刑事についてはイギリスの法を続けました。その後の歴史はイギリス領北アメリカで扱います。
ヌーヴェル・フランスの面影を訪ねる
パークス・カナダ(Parks Canada)が管理する国定史跡で、この時代を知ることができます。
- ポール・ロワイヤル国定史跡(ノバスコシア州):1605年にシャンプランが暮らした「アビタシオン(Habitation)」を再現しています。北アメリカで最初期のヨーロッパ人の入植地のひとつで、案内の人が当時の入植者の苦労や、ミクマク(Mi’kmaq)の人々との関係を紹介しています(パークス・カナダのページ(新しいタブで開く))。
- ケベックの要塞国定史跡(ケベック・シティ):ユネスコの世界遺産「ケベック旧市街の歴史地区」の軍事と社会の歴史を伝える史跡です(パークス・カナダのページ(新しいタブで開く))。
日本との違い・注意点
- ケベック州でフランス語が広く使われている背景には、この時代の入植と、フランス系住民の暮らしを認めた1774年のケベック法があります。言葉の制度は公用語で扱います。
- Discover Canada によると、ケベック州の人の多くは、1600年代から1700年代にやってきた8,500人のフランス人入植者の子孫です。
- 「アカディア人」と「ケベック州の人(Québécois)」は、どちらもフランス語を話しますが、歴史も住む地域も違います。ひとまとめにしないようにします。
- 同じできごとでも、フランス系、イギリス系、先住民では受け止め方が違います。とくに先住民にとっての意味は、先住民の側から見た歴史も合わせて知ることが大切です。
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