イギリス領北アメリカ(British North America)
1763年から1867年の連邦結成まで、いまのカナダの多くはイギリスの植民地でした。ロイヤリストの移住、1791年憲法法によるアッパー・カナダとロワー・カナダ、1812年戦争、1837〜1838年の反乱、責任政府の実現までの流れをまとめます。
イギリス領北アメリカとは
イギリス領北アメリカ(British North America)は、1867年の連邦結成より前に、北アメリカの北部にあったイギリスの植民地をまとめて呼ぶ言葉です。1759年のアブラハム平原の戦いのあと、イギリスはフランスの植民地を「ケベック植民地(Province of Quebec)」と名付けました。それより前の時代はヌーヴェル・フランスで扱います。
この記事は、市民権の学習用ガイド「Discover Canada(新しいタブで開く)」の「カナダの歴史」の章をもとにまとめています。
年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1759年の後 | 戦争のあと、イギリスがフランスの植民地を「ケベック植民地」と名付ける |
| 1774年 | ケベック法。カトリック教徒の信仰の自由と、公職につくことを認める |
| アメリカ独立革命のころ | 革命を逃れたロイヤリストが、ノバスコシアとケベックに移る |
| 1791年 | 1791年憲法法で、アッパー・カナダとロワー・カナダに分かれる |
| 1793年 | アッパー・カナダが、帝国の中で最初に奴隷制の廃止へ動く |
| 1812年6月 | アメリカがカナダに侵攻し、1812年戦争が始まる |
| 1832年 | モントリオール証券取引所が開く |
| 1833年 | イギリス議会が、帝国全体で奴隷制を廃止 |
| 1837〜1838年 | モントリオールの周辺とトロントで武装反乱 |
| 1840年 | アッパー・カナダとロワー・カナダが「カナダ植民地」に統合される |
| 1847〜1848年 | ノバスコシアが、植民地で初めて完全な責任政府を実現 |
| 1848〜1849年 | カナダ植民地でも責任政府が始まる |
ロイヤリストの移住
アメリカ独立革命のとき、イギリス国王に忠誠を誓う人々は「ロイヤリスト(Loyalists)」と呼ばれました。4万人を超えるロイヤリストが、ノバスコシアとケベックに移り住みました。ジョゼフ・ブラント(Joseph Brant)は、ロイヤリストのモホークの人々数千人を率いてカナダへ移っています。自由人や奴隷だった黒人のロイヤリスト約3,000人も、北へ移りました。
アッパー・カナダとロワー・カナダ
1791年の憲法法(Constitutional Act)は、ケベック植民地を2つに分けました。
| 名前 | のちの州 |
|---|---|
| アッパー・カナダ(Upper Canada) | オンタリオ州 |
| ロワー・カナダ(Lower Canada) | ケベック州 |
この法律で、2つのカナダには、初めて住民が選ぶ議会が置かれました。「カナダ」という名前が正式なものになったのも、このときです。
アッパー・カナダでは、1793年、副総督ジョン・グレーヴズ・シムコー(John Graves Simcoe)のもとで、奴隷制の廃止へ向けた動きが始まりました。イギリス議会は1833年に帝国全体で奴隷制を廃止します。その後、アメリカから逃れた数千人が、「地下鉄道(Underground Railroad)」と呼ばれる奴隷制に反対する人々のネットワークを通ってカナダに住みつきました。
1812年戦争
1812年6月、アメリカがカナダに侵攻しました。カナダの志願兵や、ショーニーの指導者テカムセ(Tecumseh)が率いる人々などのファースト・ネーションズが、イギリス軍とともに戦いました。
- アイザック・ブロック少将(Sir Isaac Brock)はデトロイトを占領しましたが、クイーンストン・ハイツの戦いで亡くなりました。
- 1813年、シャルル・ド・サラベリー中佐(Charles de Salaberry)が率いる460人の兵士が、シャトーゲーで4,000人のアメリカ軍を退けました。兵士の多くはフランス系カナダ人でした。
- 1813年、アメリカ軍はヨーク(いまのトロント)の総督公邸と議事堂を焼きました。1814年には、ノバスコシアから出た遠征隊が、ワシントンのホワイトハウスなどを焼いています。
- 1813年、ローラ・セコード(Laura Secord)は約30kmを歩いて、アメリカ軍の攻撃の計画をイギリス側の部隊に知らせました。
Discover Canada は、いまのカナダとアメリカの国境は、一部がこの戦争の結果だとしています。
反乱と責任政府
1830年代、アッパー・カナダとロワー・カナダの改革派は、民主主義に向けた歩みが遅すぎると考えていました。1837〜1838年、モントリオールの周辺とトロントで武装反乱が起きましたが、住民の支持が十分でなく、成功しませんでした。
反乱について報告するためにイギリスから送られたダラム卿(Lord Durham)は、2つのカナダを一つにし、責任政府を与えるよう勧めました。1840年、アッパー・カナダとロワー・カナダは「カナダ植民地(Province of Canada)」に統合されます。
責任政府(responsible government)は、議会の多数の支持を失った政府が退く仕組みです。ルイ=イポリット・ラ・フォンテーヌ(Louis-Hippolyte La Fontaine)とロバート・ボールドウィン(Robert Baldwin)、ノバスコシアのジョゼフ・ハウ(Joseph Howe)が、イギリスの総督と協力してその実現に取り組みました。
- 1847〜1848年:ノバスコシアが、イギリス領北アメリカで初めて完全な責任政府を実現
- 1848〜1849年:カナダ植民地の総督エルギン卿(Lord Elgin)が、責任政府を導入
その後、1867年の連邦結成へ進む流れは連邦結成(1867年)にまとめています。
暮らしと経済
Discover Canada によると、カナダの経済は長いあいだ、農業と、毛皮・魚・木材などの天然資源の輸出が中心でした。物は道路や湖、川、運河で運ばれていました。最初の金融機関は18世紀の終わりから19世紀の初めにかけてでき、1832年にはモントリオール証券取引所が開いています。
日本との違い・注意点
- カナダは、戦争による独立ではなく、イギリスの植民地のまま議会の仕組みを少しずつ整え、1867年の連邦結成へ進みました。いまも国王を元首とする立憲君主制です(立憲君主制と国王・総督)。
- アッパー・カナダとロワー・カナダは、いまのオンタリオ州とケベック州の前身です。古い記録や史跡の説明でこの名前を見かけたら、どちらの州の話かを置きかえて読むとわかりやすくなります。
- 同じできごとでも、イギリス系、フランス系、先住民では受け止め方が違います。先住民から見た歴史は先住民の歴史で扱います。
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